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2008年03月12日

●20周年記念集会(報告)

 社会福祉基礎構造改革論から始まり、障害者自立支援法経由で介護保険との統合という厚労省の見通しが頓挫しかけているように見えるが、すべてが悪いのではなく、この中にも評価すべき方向性はあって、それは、入所施設から地域へという方向だ。

 しかし、「地域へ」というところに強力な予算措置を行なわないものだから、地域の受け入れ態勢は整わない。障害者とその家族は不安で施設を出るに出られず、施設は予算を削られて経営が苦しくなり、利用者側も施設経営者側も希望や安心を持てないでいる。   

 入所施設は障害者のいる家族の最後の頼みの綱だった。そこに入れれば、家族は肩の荷が下りて「安心」できた。しかし。施設は入所している障害者が望んで出来上がったものではない。

 入所している障害者は「あきらめている」かもしれないが、安心」しているわけではない。それでは「地域」の暮らしには、自由があるとしても、「安心」はあるのだろうか。

 私たちの仲間の中にも、親子共倒れ寸前というふうに見える家族があり、とりあえず障害者を施設に入れることで共倒れを避けるという方法以外に、私たちは何か解決するすべを持っているのだろうか。

 老いぼれてしまえば、障害を持たない者の「安心」だっておぼつかないのに、障害者やその家族にとって「地域」で安心できる暮らしがあるのだろうか。「自立」と「安心」は両立しないのではないか? 

 よその地域の事例や国や自治体の制度を持ってくればなんとかなるという手っ取り早いお手本はないと思ったほうがいい。

 今後の地域の障害者運動は、ここをめぐっていかに衆知を集め、具体的な成果を出せるかにかかっているのだろう。

 というのがセンター21の20周年記念集会にあたっての考えだった。

 3月8日、上福岡駅西口ふじみ野市サービスセンターホールにセンター21関係者90名の人たちが集まった。

 二人三脚所長下重さんの司会の下に主催者の挨拶。

 功労者表彰(ボランティアグループやまびこ代表岩本さん)に続き、代表有山さんが「障害者が地域で暮らし続けるための市民活動の歩み」と題して基調報告を行なった。

1976年のとんぼの会発足から2007年センター21活動全体のNPO化までの歴史を振り返り今後の課題として、

1、自治体の福祉施策のレベルアップを図るために市内障害者団体の連携を強めていくこと。

2、若い知的障害者自立の道筋を示せるよう、経験を積み重ね、自立プログラム化していくこと。

3、就労希望者の支援を専門機関や関連団体を利用しながら行なうこと。

4、障害者の高齢化、病弱化に対応する日中活動や、介助体制を整えること。

5、障害者の親の高齢化が進み、親子共倒れの危険が差し迫っている。これの対応を急ぐこと。

6、障害者の地域暮らしは、家族や「福祉職」だけで支えきれるものではなく、職場地域、ボランティアなどの重層的な人間関係を作る市民運動として広い視野をもつこと。などを示した。

 その後、全員が三つの分科会に分かれて、話し合いを行い、最後に再び集まり、各分科会の報告を行なって散会した。こうした形の全員参加のミーティングは初めての試みだったが、手ごたえがあり、今後も継続していきたい。

1班「働く!?働かない!?働けない!?」報告 くまのベイカーズ 竹内善太

 働く分科会は様々な立場の人から発言をもらい、「働く」ということを多面的に捉えていくことをテーマにおこなった。

 助言者は越谷市障害者就労支援センター所長吉田功一氏にお願いをした。

 始めに参加者全員の自己紹介を行ったあとに、司会の竹内から、センター21のこれまでの「働く」ということに対する取り組みについての概要説明をし、その後それぞれの立場からの報告をしてもらった。

 デイケアから一般就労した8人からの報告とその家族からデイケアから一般就労をした8人のそれぞれの現在の仕事の様子を写真を使用し、話してもらい、参加者からの質問に答えてもらう形式で進めた。

 報告を受けて感じたのは、仕事の内容はそれぞれ全く違うのだが、一般就労した人たちは会社員になったというプライドをしっかり持ちながら働いていることを感じた。

 しかし、普段の生活の様子は、会社での交友関係が広がらず、デイケア在籍中と同じセンター21の関係者や、養護学校での交友関係が中心となっている。

「デイケアを卒業して、今の会社に就職した。」といった発言もあったことから、一般就労した人たちにとってデイケアとは「働く場」とはちがう別の場として存在していたのではないかと感じた。

また、家族からの話では、本人たちからの報告と同様、会社勤めするようになっても人間関係は以前とあまり変わらず、センター21や養護学校の関係者とのつながりが強く、職場での新たな人間関係の広がりはあまり見られないことや、会社にどこまでお願いをしていいかなど、細かなことも含めて連絡調整が難しいこと等が話された。

 一般就労からデイケアに来た人一般就労からデイケアへ来た人からは、「会社ではもう働きたくない。」「今のデイケアの仕事をもっと覚えていきたい」という報告があった。こちらは、一般就労した人が持っていたデイケアのとらえ方とは違い、デイケアも働く場として存在している。

 ただ、今までの会社とは働き方が違う場であり、それが今の自分には合っているということになっているようだ。

働きたくない人

働かないほうががよいと立場から「みんな仕事なんかしないほうがよい。もっと遊んだ方がよい」という発言をしてもらった。

 報告をしてもらった人はデイケアではほとんど仕事をせず過ごしている。当然給料も少ない。しかし、生きていくために必要な食べもの、着物、生活する場所、趣味などそれなりに充実しており、毎日仕事をしている人と何ら変わらない生活をすることができているようにみえる。もちろん、家族の収入や年金収入があるから生活できるのだが、会社で働く人やデイケアで働く人と比べて、その生活全体や人間関係が大きく変わらないというのは非常に興味深いものだった。

全体を通じて

 一般就労した人もデイケアにいる人も共通して自分がいくら給料をもらっているかを把握している人ごくわずかだった。また、一般就労からデイケアに来た人たちも「会社で働いていたときはもっとたくさんお金をもらっていたけども、お金が少なくなってもデイケアで働いている方が自分にとってはよい」と感じている人が多く、働くとはいっても、家族を養うためにお金が必要であるとか、自分の望む生活のためにお金が必要ということが主たる目的ではなく、それとは違う目的が彼らには存在していて、働く=お金という視点だけでは働くという事柄を見ていくはできないのだろうと思う。就労支援が声高く叫ばれている今、働くということだけに焦点を当てた支援では、共に生きていく社会を形成できないのだと思う。もちろん所得保障の場としての働く場の活動は重要だが、それとはまた別の方向の活動を行っていかなければならないと強く感じた。  

 それがどう行った方向の活動なのかは今はまだ分からないが、原点に返り、「共に生き・働くということ」ということ。また、「働かない!?」という視点もふまえ、今後のセンター21での「働く」に関わる活動を探っていきたいと思った。

2班「親元を離れてくらす」

■司会 下重美奈子■助言者 本田勲、藤崎稔(わらじの会)■インタビュー 風間紀央(元生活ホーム職員)               

 参加者20名。始めに、質問表に沿って自己紹介をして貰いましたが項目が多く結構な時間がかかってしまいました。「親元を離れて暮らす」というテーマで、生活ホームに入居している人達の暮らしとグループホームを出た人の暮らしを映像で見ながら説明して頂きました。その他の人達の暮らしでは、ケア付き住宅と民間のアパートで介助者を使いながら生活をしている人の話をして頂きました。

 話の中では、生活ホームでの生活によって人間関係が広がったということでホームを出て一人暮らしに繋がった、全くの一人暮らしは緊急時に対応してくれる人がいなくて不安だという話などが出た。知的障害を持った方の暮らしには、生活ホームやケア付き住宅の方が職員がいて安心だという声が多く聞かれました。

 後半では体験入居の必要性と大切さが語られ、その経験が親元をはなれた暮らしに繋がったそうです。保護者の立場としては、親亡き後を考え不安になる親御さんが多くみられ、生活ホームひまわりのように家庭的な所の方が安心できるみたいです。職員の立場としては入居者同士の人間関係の難しさ、それぞれの個性、ペース配分など難しさを感じるそうです。

 10年後のセンター21の様子を描く話まで行きませんでしたが、最後のまとめとして、他人の力を上手に使う、他人に出会う、ネットワーク作りの大切さが見えてきました。また生活ホームや一人暮らしなど同じテーマで話合って情報交換する機会をつくって欲しいとの要望がありました。

懇談会に参加して

今枝鈴子

 越谷市の方のお話で少ない助成金での運営の話や生活ホームは職員だけでは無理があるのでボランティアさんの協力の必要性、ボランティアさん確保の苦労話等を聞き新しくホームを作る事の大切さを知らされました。自己紹介に時間が掛かり過ぎて話し合いの時間が短くなってしまい日常的な話が聞けなかった事と他の市の方が居なかった事が残念でした。

「第3分科会」報告 テーマ「介助があればうまく暮らせる?」

 二人三脚のサポーターや社協などのヘルパーを使っている人、これから使いたい人、介助している人、一人暮らしの人、自分の高齢化が心配な人、障害者の親、施設職員など25名が参加した。司会はセンター21代表有山さん。

 助言者に所沢市の介助者派遣組織「とことこの家」の瀬井さんを招いた。また二人三脚の介助者を使ってうまく暮らしを成り立たせている4人の方(富士見市の視覚障害者杉田さん、所沢市の重度障害者の母親長谷川さん、ふじみ野市のバリアフリー住宅に住む車椅子利用者の須藤夫妻)をゲストとして招き、他の人より長めにしゃべってもらった。

 全員がしゃべることを第一の目標にし、自己紹介シートを使いながら長めの自己紹介をすることから始めた。障害者とその親は、ヘルパーを使っているか、どんなことをヘルパーに頼んでいるか、あるいは今後頼むつもりかなどもしゃべってもらった。サポーターをしている人には、どんな介助をしているか、やっていて考えさせられることを話してもらった。ゲストの杉田さんは、ガイドヘルパーを活用して都内の視力障害団体活動に活発に参加していること、長谷川さんは、通所施設、ショートステイ施設、ヘルパー、ボランティアなどを相談支援センターのコーディネーターに入ってもらい重層的に活用し、半身不随の夫と脳性まひの息子との暮らしを営んでいること、須藤夫妻は、障害者同士助け合いながらも、身体介護、家事援助、生活サポートで二人三脚のサポーターに世話になっていることなどを話してくれた。センター21の若い知的障害の人たちは、プールや電車に乗り、歌の会など

 移動支援を頼んでいる人が多く、家事などは家族の支援に頼っていて、自分が障害者年金を受けていることもはっきりわかっていない。高齢の人は、65歳を過ぎて介護保険対象者になったとき、派遣事業者が変わったり、受けられるサービス(移動、生活サポート)が減ったり、なくなったりするという心配をしていた。助言者の瀬井さんからは、重度訪問介護の使いやすさと報酬の低さ、生活サポート事業の規制強化の動き、65歳以上なった人が障害者福祉サービスを使い続けられるよう所沢市と話し合っていること等の情報提供と、知的障害の人たちには、移動支援を使って生活範囲を広げようと助言した。

よく気がつく人も、さっさと帰る人もいますね

(報告者・長谷川淳也の母、テル子さん)

 息子の淳也は40歳。身長が175センチで58キロありまして、大きいほうです。週に24人のヘルパーさんが入ります。それと訪問介護がありますから25人です。

 朝8時から3時半まで、6時に夕食介助があって、9時にお風呂介助が来ます。火・木曜は自立センターに行って5時に帰ってきてお風呂。土日はヘルパーさんがいなくてたいへんなのですが、昼は私が介助をします。将来は土地を手放して、淳也のために一戸建てを作り、支援センターを利用して、生活していけるようになればと考えています。ヘルパーさんはね、若いのに気がつく人も、さっさと帰る人もいますね。こちらからはなるべく口を出さずに、お風呂に入れてもらい、布団に入れてもらえるように考えています。本人もヘルパーにからかわれたって気持ちよく、楽しそうにやっています。老人の施設で働いていた人は「失礼します」と挨拶して、教育が行き届いているという感じがしますが、他の人は「やー、入ろうか」という。ちょっと違いますね。月一回、支援の責任者が計画表を作って、支援者に集まってもらっています。本人は本を読んでもらうのが好きで、新聞や小説を読み、深夜でも浪曲や上方漫才をラジオで楽しんでいます。(助言者から)長谷川さんは、地域福祉の生き字引のような人です。淳也さんを抱えてずっとがんばってこられただけでなく、通所の作業所作りなどにも取り組んできています。

声を出し続けてこそ (報告者・杉田直江)

見えなくなったのは50歳のときです。その頃からガイドヘルパーの制度が出来て、観劇にもパー出かけるなど、充実した生活を送っています。障害者自立支援法で介助の時間を30時間も減らされたのですが、市役所で粘って50時間を確保しています。この時間で、障害者が駅のホームから落ちないようにする運動に取り組んで、年2回国交省にも出かけます。今日はセンター21さんの20周年という事ですので、おしゃれをしてまいりました。外に出ることに億劫にならずに、出かけられるのはすばらしいことですね。見えなくなってからのほうが、積極的になって、声を出していかなくては、と思うこともあります。1人でも出かけます。芝公園の裏にあったパソコン教室に6回行きました。込み入った移動のときはガイドさんについていってもらいます。

 家事援助は週一回一時間半に減らされたので、お掃除と買い物だけ。お料理は得意なので自分でします。にんじんの皮が少しぐらい残ってたって平気ですから。

 夢はね。介護ロボット、ガイドロボットができることですね。

 生涯を付き合うつもりで (報告者・須藤政彦・須藤俊子)

(俊子)生まれたときから障害がありましたので、学校に行っていないのです。双子で苦労もしましたが、いまは人の出会いに感謝しています。

(政彦)私たちは支援費が始まってから、介助の方にお世話になっています。身体介護24時間、家事援助40時間、生活サポートに11,5時間を頂いて使っています。私は筋ジストロフィーですが、冠婚葬祭や、ホームパーティを開いたり、生活の中に入っていただいています。

 ところが自立支援法の制度は、弱ければ弱い人ほどお金を頂きましょうという制度ですから、これからの福祉がどうなっていくのか、10年先はどうしたらいいのか、どこまで対応できるのか、こうした心配の種がいつも頭にあるようになりました。

 いまは、カラオケ教室に通って、朝から晩まで歌ったり、絵を描いたり、ヘルパーさんが来るとおしゃべりをして、それから食べるのが好きなもので、ソバだ、和食だと皆さん私に付き合ってくれます。

 風呂などは自力で出来るように、自宅のバリアフリー化もすすめています。車の改造も。

   サービスの区分は、このサービスはいいけどこれはダメなど、使いにくいし、減らそうとしているのがわかって、かえってストレスを感じます。65歳を過ぎて、障害者サービスが受けられなくなってらどうしようとおもいますね。手帳をもらったら利用者は一生付き合うことになるので、長くかかわって欲しいと思いますね。